1917年の英国インド相
モンタギューが行った戦後自治の約束(インドの自治を漸進的に実現していくという内容)は形式だけの自治を認める
インド統治法の発布に終わり、1919年3月には
ローラット法(インド政庁発布の、破壊活動容疑者に対する令状なしの逮捕、裁判ぬきの投獄を認めた法規)が発布された。4月に入ると、アムリットサールを中心としてパンジャブ州では大暴動が発生し、銀行、駅、電話局、教会などが暴徒に襲われ、十数人のイギリス人が殺害されたため、治安部隊が投入され、集会の禁止が通達された。しかし、2人の民族指導者の逮捕に抗議する非武装の集会が1919年4月13日パンジャーブ地方のアムリットサール市で行われた。それに対してイギリス人の准将R.E.H.ダイヤー率いるグルカ兵からなるインド軍一個小隊が乗り込み、避難する人々の背中に向けて弾丸が尽きるまで銃撃を続け、1,500名以上の死傷者を出した。この後、戒厳令が発令され、暴動は一気に収束したが、この弾圧によってインドの反英運動は激化することになった。
パンジャーブ地方はこののち
戒厳令が敷かれたが、すでに1919年4月6日に
マハトマ・ガンディーによって始められていた非暴力抵抗(サティヤーグラハ)運動はこの事件を契機にして大きく進展することとなった。サティヤーグラハの運動理念は、のちにガンディーがインド独立運動を指導するさいにも引き継がれた。ダイヤー准将の行動は、イギリス政府からも厳しく非難され、大佐に降格の上に罷免された。だが、上院の保守派がかばったことと、本人の健康状態の悪化によって訴追されることはなかった。
1940年、事件時のパンジャブ州知事だったサー・マイケル・オデイヤーが、事件の生存者によって
ロンドンで射殺された。